創業者 小澤安之助 ~創業当時から終戦直後~
小澤安之助は、岩手県江刺郡岩谷堂町から父安左エ門、母トキ、祖父母、兄安次、姉の7人家族で、昭和6年9月に釜石に来往した。安之助は小学校5年生の少年であった。
父安左エ門は、岩谷堂町一日市で農業と農機具専門の鍛冶屋を営み、兄は東京の岩倉鉄道学校を卒業し鉄道員として働いていいたが、金融恐慌の犠牲となり、一家をあげて釜石に移住。
当時の釜石は、岩手県第二の都市として製鉄所と水産業の町として隆盛の最中であったが、再起をかけて来往した小澤家の生計は苦しく、父と兄が家計の大黒柱となり様々な仕事をしながら支えていたが、父安左エ門は、ついに過労がもとで昭和8年9月に47歳で死去したことから生計は兄と安之助の背に大きく追いかぶさってきた。安之助は当時、釜石商業学校3年生であったが、中退し、家業の資源回収に専念することになったが、安之助は家業の傍らお茶の行商もするなどして家計を助けた。
その後、昭和15年から3年満州に兵役として従軍し、同18年3月に帰還、その翌年人生の伴侶としてソノと結婚。
当時、兄は戦時下の統制経済時代にあったが生活必需品組合や本業では全国資源回収業者組合副会長と多忙を極めていたことから、安之助夫婦は県都盛岡への進出を計画し「岩手資源商事株式会社」を設立し、独立の一歩を踏み出したが、その矢先昭和18年11月22日大渡3丁目に発生した大火により罹災したことから兄安次は苦境に立たされた。安之助は兄を助け店舗を新たに構え再出発を期したが兄安次は事業意欲をなくし仙台へ行く。安之助は盛岡進出を断念し釜石に帰り事業立て直しに専念。また兄安次も仙台から呼び寄せ兄弟で家業の運営にあたった。ところが昭和19年に兄安次は車の不慮の事故で急死し、家業は安之助が継続した。
時は、大東亜戦争の最中、しかも日本本土の主要都市は、大空襲を受け、釜石も昭和20年7月14日、8月9日と二度の艦砲射撃をうけ市内は焼土と化し、小澤商店も罹災した。終戦後の釜石は、日本経済の大混乱と戦災地という苦境の中にあって、市民生活は容易でなかったが、安之助の持前の忍耐力と研究心をもってこの難局を切り抜けた。
会社沿革
昭和19年10月 | 株式会社小澤商店 設立 |
昭和38年9月 | 有限会社釜石自動車学校 設立 |
昭和48年7月 | 有限会社根浜ゴルフセンター 設立 |
昭和59年9月 | 有限会社丸和 設立 |
昭和59年9月 | 有限会社花巻自動車学校 株式譲受 |
昭和61年3月 | 株式会社宮古自動車学校 株式譲受 |
平成2年9月 | マルワ自動車工業株式会社設立(自動車整備業) |
平成2年9月 | 株式会社興和 設立(ブロー成型業) |
平成5年9月 | 株式会社釜石タクシー 株式譲受 |
平成22年4月 | マルワ自動車工業株式会社 株式譲渡 |
平成23年3月 | 有限会社丸和 ミニスーパー事業開始 |
平成23年5月 | 株式会社三陸技研 株式譲受 (FRP製造販売業) |
平成27年7月 | 有限会社丸和 シェフズ弁当事業開始 |
平成30年4月 | 株式会社宮古自動車学校 株式譲渡 |
平成31年3月 | 有限会社根浜ゴルフセンターをmaruwa mart株式会社へ変更 (食品加工及び販売業) |
令和5年4月 | 岩手阿部製粉株式会社 株式譲受 |